ネット上では書き手に対して「誤解されないような文章を書け」という論調はよく見られるけど、読み手に対して「書き手の主張をちゃんと読み取れ」という意見はあまり無いような気がする。このことに対してずっと違和感というより不満のようなものを感じている。

私が言いたいことは別に大したことではなく、読み手も書き手も双方歩み寄ろうや、っていうごくありきたりで陳腐な意見だ。書き手は誤解されないように意識して文章を書く、読み手は書かれているものに不備があるかもしれないことを汲んでやることが必要だということ。ただ書き手側については今まで散々言われているだろうから、このエントリーでは読み手側について書きたい。

私はネット上の文章について読み手の傲慢さ、あるいはお客意識のようなものをよく感じる。それは、客側が「お客様は神様だ」と標榜し、傲慢な振る舞いをするのに少し似ている。それは店側の努力目標であって、客が言うセリフではないだろう。「文章を誤解されないように書く」というのも書き手の目標であって、読み手側が言うことじゃない。つまりネット上のコミュニケーションにおいて、読み手が積極的に文章を能動的に理解しようとしていない節があるということだ。

はてなのサービスの中では私は人力検索を一番よく利用していて、結構色々な質問とその回答を見ている。で、そういう質問とその回答のやりとりを多く見ていると、いつも質問の意図を確実に捉えて的確な回答している回答者と、毎度毎度見事なまでに質問の意図に沿っていない回答を繰り返している回答者というのが歴然として存在していることがわかるようになる。多分、しょーもない回答を繰り返している回答者は読解力が足りないのだろう。

また、質問文に不備があって質問の意図が上手く伝わらないことによって、回答者が間違った回答をしてしまい、質問者と揉めるということはまま見受けられる。ただ、私がそういった軽い揉め事を傍から見ている時に抱く感想の大抵は、「まあ質問文に多少は不備はあったかもしれないけど、そこは十分汲み取ってあげれる範囲内だろう」というものだ。プログラミングのソースコードみたいにセミコロンをひとつつけ忘れたら動かないソフトウェアじゃないんだから、そんなに杓子定規に考えるんじゃなくて、もっと柔軟にいこうよと思う。

まあ、一言で言えば「行間を読め」ってことになる。ネットには「書いていないことを勝手に読み取るマン」という言葉がある。この言葉の意味が、文章を曲解して誤読している場合に対してのみ使われているのか、「行間を読む」行為そのものに対して揶揄して使われているのかはわからない。前者の意味なら別に構わないが、後者の意味で使われているのなら断固反対したい。読み手は文章の行間を読まなくてはいけないと思うし、それを全否定するのはやはり知性の低い考え方だと思う。

もちろん、行間を読むという行為が結果として余計な邪推になってしまうことはたまにはあるだろうし、ブログなどのように、Web上に公開している文章を読む者全員に対して高い読解力を求めるというのも現実的ではない。それにまあ、書き手は1人だけど読み手は複数いることも考えると、書き手1人の「誤解されないような文章を書く」努力の方が、読み手1人ひとりに対して「誤読しないようにちゃんと読め」というより全体の誤読率を下げることができるのは事実なので、書き手側に対して散々言われるのはある意味当然だとは思うし、また合理的・効率的ではある。

ただ、それでもやはり私は読み手側のお客意識、傲慢さを感じてしまうのだ。まあこのエントリーの書き手である私が、このエントリーの中で読み手側に対して「ちゃんと読むように努力しろ」と言っているわけだから、「書き手のお前が読み手側に努力を要求してるのは、お前の論理からすれば傲慢、というより矛盾じゃねーか」という反論があるのはもっともではあるけれども。

それでも私は自分が読み手の時は、書き手が真意を上手く伝えきれていないならば、揚げ足を取らず、相手が本当に言いたいことはなんなのかを読み取りたいと思う。

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Lesson305 ひとつ上の、人をわかる力

先日。
大学の講義のあと、
教授たちと「若者の読解力」の話になった。

読解力には松・竹・梅の3段階がある。
長めの文章を読んで要約しなさい、というとき、
松の人は、筆者のいわんとすることを、自分の言葉で
40字以内(ほとんど1文)で、要約できる。

竹の人は、
筆者がそこに書いてあるとおりの言葉を使って、
文章を削ったり、つないだりして
400字くらいになら、縮められる。
梅の人は、うまく要約ができない。

ラブレターにたとえると、
「こんどの休みは暇ですか、私も暇なんですけど…」
と、まわりくどいことが
えんえん便箋5枚にわたって書かれ、
核心のことが書けていないラブレターを要約するときに、
梅の人は、要約することができない。

竹の人は、
「今度の休みが暇なら、
 私と一緒に……へ行ってくれませんか」
というように、そこに書いてある言葉を、
切ったり張ったりしながら
400字くらいに縮めることはできる。

松の人になると、
「要するに…要するに…筆者は何がいいたいのか」
と考えて、
たとえ文面にはいっさい登場しない言葉でも、
自分の言葉を使って、「好き」と2文字で要約する。
要するに
筆者は相手に向かって「好き」と言っている、と。


(中略)

充分に言いたいことが言い切れない人にたいし、
私自身、いらいらしたり、
それをぶつけたようなこともあった。

でも、がまんしてじっと聞く、のではなくて。

一歩進んで、
この人が、ほんとうに
いわんとしているのはどういうことかしら、
と、そこを汲み取ったり、復元・再生していくことを
ちょっと楽しんでしまえる心の余裕を持ちたい。

その上で、
「あなたが言おうとしていることは、
ほんとうは、こういうことですか」
と要約して、相手に返すのではなく、

相手のいわんとすることは自分の中で静かに汲み取って、
その上で、自分に求められている発言のパートを、
誠実に、せいいっぱい返していく、

そういうコミュニケーションがしたいと私は思う。



追記  下のTBのKoshianX氏のエントリーに対して少しだけ補足。

私も、「最終的には」読み手が何を読み取り何を感じるかは自由だと思います。各人がそれぞれ何か思う所があればいいんだろうとは思いますし、多様性は必要でしょう。ただ、ブコメにもありましたが自由な読解と誤読は違うと思いますし、単なるカオスであるということと、創造性が豊かであるということは別の次元だと思います。

読解力の高いメンバーで構成されたコミュニティーでは、共通理解の上で創造性が発揮されるだろうと思いますが、読解力の低いメンバーで構成されたコミュニティーでは単に各々がポイントがズレまくった発言をする割合が高く、S/N比は低いだろうとも思います。カオスなコミュニティーの中でスゴい発見がされること「も」あるだろうとは思いますが、それは多分「下手な鉄砲数打ちゃ〜」でしかないような気もします。

Webのように誰にでも開かれた場所ではメンバーを限定することは難しいでしょうから、必然的にカオスになりがちです。だから書き手にはある種の諦念のようなものは必要でしょうし、行間を読むことを期待するのはかなりの無理筋であることは理解しているつもりです。まあ要するに、清濁併せ飲む必要がある、ということだと思います。ただそれでも自分は読み手が書き手に対して何か物を言おうとするなら、文意を読み取ろうとする「態度」は持っていて欲しいとは思います、たとえそれが現実的には実現しそうにはなく、またそれが私の傲慢であろうとも、です。

ただ、ここら辺はTBやWebに対する考え方の相違から来ているとも感じています。いつかTBに関するエントリーを書いてみたいと思います。

余談ですが、ちなみに自分はKYな人や変人に対しては寛容でありたいと思っています。自分自身もKYで変人なので。