ずっと本の読み方に疑問を持っていました。それは前回まで書いたような、目次を読む、タイトルから内容を想像する、序章は読むというような方法論とは全く別のもののことです。そういうことではなく、読書における情報の受け取り方のようなものについてずっと疑問に思っていました。
自分なりに考えた結果、とりあえず辿り着いた答えが、情報を外在的に受け取っているか、内在的に受け取っているかの違いなのではないか? と思い至った。しかし、そう思い至った時、すっと腑に落ちるような感覚は無かった。そんな時、まさに我が意を得たりというか、私の暗黙知を上手く形式知に変えてくれた文書に出会った。
そう、私がうまく表現できなかったものはこれだったのです。内田は本の読み方を「情報として読む」やり方と、「古典として読む」やり方の2種類に分けています。「情報として読む」というのは、私なりの解釈では、ものの見方が変わるわけではなく、何か新しい知識や、情報を手に入れるだけという読み方でしょうか。それに対して、引用部分が「古典として読む」読み方です。
読み方で分けているのですから、古典を「情報として読む」ことも可能だし、普通の本を「古典として読む」ことももちろんできます。本で分けているわけではなく、読み方でわけています。
正確には「古典として読む」読み方も情報を読み取っているわけですから、厳密にはおかしな表現です。ただ内田は問題を明確に意識してもらうためにあえて、ピンときやすい日常語を使ったと述べています。
それはともかく、私が問題意識として持っているのは、学生時代(大学時代)に力点を置くべき読み方はどちらなのか? ということです。私は古典としての読み方に重点を置くべきだと思います。恐らく、社会人になったら情報としての読書を要求されることが多くなるでしょう。だからそれまでに様々な物の見方を身に付けるような古典としての読みを重点的にするべきだと思うのです。
今まで見ていたものが、違うように見えてくる。そんな読み方を私はしたい。
読書と社会科学 (岩波新書 黄版 288)
関連エントリ
本は全部読むべきか?
本のどこを読むべきか?
日本の名著 世界の名著
自分なりに考えた結果、とりあえず辿り着いた答えが、情報を外在的に受け取っているか、内在的に受け取っているかの違いなのではないか? と思い至った。しかし、そう思い至った時、すっと腑に落ちるような感覚は無かった。そんな時、まさに我が意を得たりというか、私の暗黙知を上手く形式知に変えてくれた文書に出会った。
「読書と社会科学」 内田義彦 P12
新しい情報を得るという意味では役立たないかもしれないが、情報を見る眼の構造を変え、情報の受け取り方、何がそもそも有益な情報か、有益なるものの考え方、求め方を(生き方も含めて)変える。変えるといって悪ければ新しくする。新奇な情報は得られなくとも、古くから知っていたはずのことがにわかに新鮮な風景として身を囲み、せまってくる、というような「読み」があるわけです。
そう、私がうまく表現できなかったものはこれだったのです。内田は本の読み方を「情報として読む」やり方と、「古典として読む」やり方の2種類に分けています。「情報として読む」というのは、私なりの解釈では、ものの見方が変わるわけではなく、何か新しい知識や、情報を手に入れるだけという読み方でしょうか。それに対して、引用部分が「古典として読む」読み方です。
読み方で分けているのですから、古典を「情報として読む」ことも可能だし、普通の本を「古典として読む」ことももちろんできます。本で分けているわけではなく、読み方でわけています。
正確には「古典として読む」読み方も情報を読み取っているわけですから、厳密にはおかしな表現です。ただ内田は問題を明確に意識してもらうためにあえて、ピンときやすい日常語を使ったと述べています。
それはともかく、私が問題意識として持っているのは、学生時代(大学時代)に力点を置くべき読み方はどちらなのか? ということです。私は古典としての読み方に重点を置くべきだと思います。恐らく、社会人になったら情報としての読書を要求されることが多くなるでしょう。だからそれまでに様々な物の見方を身に付けるような古典としての読みを重点的にするべきだと思うのです。
今まで見ていたものが、違うように見えてくる。そんな読み方を私はしたい。
読書と社会科学 (岩波新書 黄版 288)
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本は全部読むべきか?
本のどこを読むべきか?
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また、リンクさせて頂きます。
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